なぜ私たちは「広告」を嫌うのか?「タイミング」「関係性」「キャラクター」って大事
2025年9月4日、App Storeの有料アプリランキング1位は「広告ブロッカー」。
この状況、ここ数年ずっと続いている印象。
「広告は嫌われているのか?」
この問いに「はい」と答えるかもしれません。でも、それじゃー色んなことが立ち行かない。ちょっと考えてみます。
たとえば、YouTubeで大好きなアーティストのライブ映像を見ていたとします。サビ直前、最高の盛り上がりで歌が始まる!と思ったら…突然、無関係な髭剃りのCMが流れてきた。
これは正直、腹が立ちますよね。「なんで今!」「なんでこんな良いところで邪魔するんだ!」と。
この場合、広告は「コンテンツを中断する邪魔者」でしかありません。
実際、THE COLLECTORS の加藤ひさしさんもポッドキャストで
あのタイミングで髭剃りのCMが流れると、逆に絶対買わない!
と嘆いていました。
一方で、テレビCMはどうでしょうか。好きなドラマを見ていて、CMになったからといって「邪魔だ!」と激怒する人は少ないはずです。「ここでCMかーい!!まぁ、そりゃそうだ」とはなる。
それはなぜか?
テレビは「CMがあるから無料で楽しめる」という暗黙の了解があるからではないでしょうか。
また、CMのタイミングがなんとなく決まっているので、中断されるストレスが少ない。
昔、乱一世さんが番組の進行中に「これからCMに入るのでトイレに行きたい人は行ってもいいですよ!」と言ってスポンサー激怒、番組を降板したこともありましたっけ。
ちょっと話が逸れましたが、我が家の茶の間で起こる話として、
「日清のCMっていつも面白いよね」by高2女子ハンドボーラー
のように、CM自体がエンターテイメントとして受け入れられ、ブランディングに寄与することだってあります。
映画館の予告編も同じです。本編が始まる前に、これから公開される映画の予告が何本も流れます。
これに対して「邪魔だ!」と感じる人は少ないでしょう。
なぜなら、映画館にいるという文脈の中で、予告編は「次に観たい作品を見つけるヒント」になるからです。
この違いは一体どこから来るのでしょうか?
それは、「広告が出るタイミング」、「コンテンツと広告、メディアの関係性に納得できるかどうか」が大きな鍵を握っているように思います。
嫌われる広告、愛される広告
広告ブロッカーが人気なのは、主に以下のような「嫌われる広告」が多すぎるからではないでしょうか。
脈絡なく割り込んでくる広告: 見ているコンテンツとは全く関係のない広告が、唐突に、一番盛り上がっている瞬間に表示されたりもする。
視聴を強制する広告: コンテンツの続きを見るために、短い動画を最後まで見なければならない。しかも、見終わったら「報酬を獲得しました」と表示され、「報酬って、見たいものを見る権利のことかい!」とツッコミを入れたくなる。
小さな「×」ボタン: Webサイトで表示される広告の、閉じたくても閉じられない小さすぎる「×」ボタンや「close」ボタン。間違えてクリックさせようという意図が透けて見える。
これらはすべて、私たちの「見たい」という行動を強制的にストップさせ、フラストレーションを与えます。
つまり、コンテンツの流れやユーザーの行動を無視した「押し付け」のような広告は、嫌われますよね。
しかし、もし広告が、コンテンツの「文脈」や「タイミング」を考慮して配信されるとしたら、どうでしょう?
それは「邪魔者」ではなく、ユーザーの興味を広げたり、新しい発見をもたらしたりする「パートナー」になり得るはずです。
コンテンツの内容、そして「間」や「周辺」への配慮。
これらが実現できれば、Web広告も嫌われない日が来るかもしれません。
そんなアドテクが生まれて欲しい。
「広告があるからこそ価値がある」と思わせる設計みたいな。
と、何を思いながらこんなことをツラツラと書いているかというと、Webメディアは大変だなぁということです。
インタビューものは置いておいて、単なるお店紹介とか商品紹介、さほどストーリーのないコンテンツで、短い動画を見ないと続きは見られません、となると、お店紹介なら食べログとかRettyで見よう、商品紹介ならマイベストで探してみようってなりますよね。
権威的である、機能的である、一定層から熱烈に好かれる、とか、わかりやすく抜けなきゃですね。
ストーリー性やオリジナリティ、語り部のキャラクターってのも大事。キャラクターのないメディアって魅力なし。






